トップページ

 

私たちの宗派〜宗派

私たちの宗派に戻る


真宗(しんしゅう)【浄土真宗】

 真宗をつぶさには浄土真宗といいます。
 真宗開祖・親鸞聖人が、仏教を開顕されたブッダ釈尊の出世本懐【しゅっせほんがい✴︎1】の教典である『仏説無量寿経』を真実の教として、この経に説く如来の本願を宗致(こころ)とし、仏の名号をもって体(すがた)として、立教開宗されたのが浄土真宗であります。

 浄土真宗とは、「親鸞聖人を宗祖と仰ぎ浄土の真実を人生・生活の宗(中心)とする同朋教団」のことで、真宗の教えの流れをくむ真宗十派のうち本願寺派(西本願寺)を浄土真宗、大谷派(東本願寺)など他派は真宗と称しています。
 これは親鸞聖人が著書の中で「浄土真宗」とも「真宗」とも述べられていることによるものです。

 浄土とは、煩悩にけがれた迷いの世界(この世)に対して、阿弥陀仏のさとりによって形づくられた清浄な国土(あの世)の意味で、

清浄=煩悩を離れた清らかな覚り心。
国土=人びとを安住させたい、拠り所を与えたいとする仏の心のはたらき
 真宗とは、真実を宗とするの意味で
真実=世代を超え(たて)環境を超えて(よこ)永遠に変わらないもの。
=中心。拠りどころ。おおもと。

 よって「浄土真宗」とは
煩悩を離れた清らかな覚りの阿弥陀仏の心のはたらきである。本願(仏が人びとにかけた願い)念仏(今、私の心に仏とどく)を永遠に変わらないものとして、生と生活の中心として共に歩む同一信心の人びとの集団。と言えます。

 考えてみれば、私たちが日常生活において拠りどころとし、宝ものとし、生きがいとしているものは、全てその価値を変えていきます。健康しかり、地位名誉しかりです。

 変わりいくものを握って頼りにしているのですから、落ち着きを失い、不安に駆られ、心が乱れていく、いわゆる堪え忍ぶだけの人生、どうにかなるだろうと自暴自棄の人生、きっといいことあるだろうと淡い希望の人生のただ中に身を置くことになります。

 この現実の世を仏教では「娑婆」【しゃば✴︎2】(梵語サハーの音写。堪忍土【かんにんど】と訳す)といいます。
 人びとは様々な苦難を忍ばねばなりませんが、その娑婆にあって覚りを開き、法を説いた「娑婆本師【しゃばほんじ✴︎3】」の仏に出会うことが、ことに大きな意味を持っています。

 雲雀は高く飛びます。しかしどれだけ高く飛んでも自分自身を超えることが出来ないように、定められた厳しい修行を積めども積めども“煩悩”【ぼんのう✴︎4】だけがぽつんと残っているのです。

 その煩悩が様々な苦悩・苦難をもたらしているのに、わが力量でどうにも出来ないこの私を、煩悩を離れ清らかなる覚りの心の阿弥陀仏が、包みとって、生老病死の世代を超え、行住座臥【ぎょうじゅうざが✴︎5】に環境をこえた永遠不変の教えに生きよ、教えをよりどころとせよ、

 と仏にとっても人間にとっても根本の願いー本願ーを立て、しかも私の様々な思考を押し分けかき分けて、私の根源にまで届かんとする念仏(今、私の心に仏とどく)に出逢うことが出来た親鸞聖人の、本願・念仏によって開かれた深く確かな人生の歩みを「浄土真宗」といいます。

 それは、修行つむ力もない、自ら覚る智恵もない私たちの歩む道でもあります。

*1.出世本懐…仏がこの世に生まれた目的、本意を言い、釈尊が生まれたのは大無量寿経によって、阿弥陀仏の救いを説くため。
*2.娑婆…私たちが住む人間世界のこと。(この世)。
*3.娑婆本師…この世での本当の師。
*4.煩悩…怒り、欲望。迷いをひきおこし、悩み・苦しみの原因となる心の総称。
*5.行住座臥…歩いている時、座っている時、寝ている時。つねに、という意
ページ先頭