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阿弥陀如来
阿弥陀如来
(あみだにょらい)

 真宗唯一の本尊【ほんぞん✴︎1】で、阿弥陀仏ともいいます。 本尊とは、根本に崇拝する、意味です。
よって、寺院・在家を問わず仏壇の中央正面にご安置していま す。

 阿弥陀とは、梵語【ぼんご✴︎2】Amitaアミターの音写で、Aは無、 mitaは量と訳し、「量ることができない」という意味を持っています。
 何で「量ることができない」のかといえば、人の思い、議(ことば)で量れないので「不可思議」とも訳されます。

 Amita(無量)に二つのはたらきがあると説かれています。
一つは、Amitayus(アミターユス)無量寿(無限のいのち)
二つは、Amitabha(アミターバー)無量光(無限のひかり)
 これは、時間と空間、いわゆる時空の制約を受けない仏(はたらき)であることを示しています。

 法蔵菩薩【ほうぞうぼさつ✴︎3】は、世自在王仏(師)のみもとで諸仏(衆生を教化する多くの目覚めた仏)の建てた浄土の優劣を顕かに見て、やがて無常と苦悩の一切衆生が等しく救われる無上殊勝の願・希有の大弘誓の四十八の誓願(本願)を建て、仏の覚りを完成されました。
 そして今は西方安楽国(浄土・極楽ともいう)で説法されています。

 真宗本尊の阿弥陀如来は、人間釈迦を目覚めしめた阿弥陀(無量)の法を人格的象徴として表現された姿であり、その容姿に32に及ぶ顕著な相(例えば身金色相)を具え、東部後ろに円光(総じて本願)と線光(別して四十八願)を表し、苦悩の衆生を座視できずに、立ち上がった大悲心を示し、右手は摂取、左手は不捨を表すといわれています。

 如来とは、阿弥陀(無量)に目覚めた一如の世界より私の家の内に、心の内に来て下さった仏さま、という意味です。

 先に述べた、二つのはたらきを「脇士」として表せば
 無量寿(慈悲心)を表現したのが、観音菩薩。
 無量光(智慧心)を表現したのが、勢至菩薩。
となりますが、親鸞聖人が「南無阿弥陀仏をとなうれば/観音・勢至もろともに/恒沙塵数の菩薩と/かげのごとくに身にそえり」(『浄土和讃』)と言われますように、「南無阿弥陀仏」の一仏名に専念するのが作法とされています。

*1、本尊…信仰の中心となる仏、菩薩。真宗では阿弥陀仏を唯一の本尊 とする。
*2、梵語…古代・中世に、インド亜大陸や東南アジアにおいて公用語とし て用いられていた言語でサンスクリット語。
*3、法蔵菩薩…阿弥陀仏が仏となる前に衆生済度(救済)を願って修行 していたときの名前。
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